2006年08月27日

さすらい地蔵 「首のない女地蔵」

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  「白幡神社」の境内にひっそりと置かれいる「お地蔵さま」。横に寝せられたこの「お地蔵さま」には「首」がありません。
  遠野で「さすらい地蔵」と呼ばれているこの「女地蔵」は、その名通り、さすらうことからこの名で呼ばれることになったそうです。

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2006年08月26日

羽黒岩 「天狗に蹴られた岩」

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  天狗に蹴られて裂けたという羽黒岩。遠野を観光で訪れても、ここへ来る人はほとんどいないでしょう。
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  「遠野駅」から車で約10分ほどの所に上り口があり、そこから10分弱徒歩で登ったところにあります。
  僕が以前から一度は見てみたいと思っていた場所です。



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posted by とぽ at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 【石碑・石 めぐり】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月21日

追分の碑 「分かれ道」

この追分(おいわけ)の碑は、大槌(おおづち)道と早池峰(はやちね)道の分岐点にあった道しるべの石碑だそうです。
石碑に彫られている文字は、「金比羅大権現(こんぴらだいごんげん)。右はおおづち。左ははやちね。」です。

追分の碑


今は340号線の道端に、静かに置かれています。立ち止まって見る人は今やいませんが、昔はこのような石碑道標がきっといろんな分岐点置かれ、人々は足を止め、行く道を確認していたのでしょうか。





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2005年11月07日

角助の墓 「しし踊りの振り付け師」



角助 墓


江戸時代、京都で見たしし踊りを遠野郷に
持ち込んだ舞い手という「角助」(かくすけ)(〜1775)の墓です。


角助 しし
しし踊り(遠野まつりにて)


「覚助」(かくすけ)が伝えた、また、「東山五書」が伝えた、
という説もあるようです。


角助 祠
墓の横にある祠
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2005年11月01日

清心尼公の碑 「女の殿様」

M 太郎カッパ遠野駅」から車で5分。


道端に車を停め
歩いて民家の間(民家の庭!?)を通って少し行くと、
「清心尼の碑」があります。

清心尼公1



 「清心尼」は八戸南部領主第19代・直栄の娘で名は「祢々」(ねね)。父が男子を得なかったため、その弟の直政と結婚し、直政は八戸南部領主第20代となります。
 その後、病弱であった直政と後を継ぐはずだった久松に先立たれ、未亡人となってしまいます。
 29歳で第21代の領主となり、1627年(寛永4年)3月、乱れていた遠野郷の治安回復のため、盛岡南部から領地の移動を申し付けられて、その時治めていた八戸から「遠野郷最初の殿様」、女の殿様としてこの地へやってきます。
 遠野南部と称し、女らしからぬ見事な政治力と才量を発揮したそうです。


清心尼公2



 1644年(正保元年)6月4日、59歳で亡くなりました。
家臣や領民が「清い心と公正な人」という意味で「清心様」と尊敬をもって呼んだのものを、後に「清心尼」と家系図に記入したそうです。
 大慈寺(だいじじ)(現在・大工町にある)がこの光興寺(地名)にあった時に葬られ、大慈寺が他へ移った後もここに残されて、側に「清心尼公碑」が建てられたものだそうです。



 手前の赤い字のが「清心尼の碑」で、柵に囲まれているのが葬られている場所です。
 一度見ておこうと思い来たのですが、けっこう、遠野の歴史上重要なものなのですね。
 コケがちょっと気になりますが、まだ新しい菊が添えてあったりして、いまだに「清心尼」は慕われているのでしょうね。
posted by とぽ at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 【石碑・石 めぐり】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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